[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
前回からのつづき
入居棟からケアマネージャーを先頭にこのホームの次席管理職の佐橋幸雄相談員、そして見学のご家族達がぞろぞろとホールへやって来た。ケアマネージャーは年のころ40歳前後で長身の男性、スポーツマン風の体躯と自身に満ちた笑顔がどことなく「やり手」を感じさせる。さらに銀縁の眼鏡が知的な雰囲気をかもし出している。部外のケアマネージャーなのだがなぜかこの中で一番偉そうな態度だ。
ホールの中央部のテーブルに全員が腰掛けてケアマネージャーが「どうですか皆さん、なかなか良いところでしょう?」などと言っている。佐橋相談員をはじめ、見学のご家族の方々もうんうんと相槌を打ってうなづいている。場の和んだ雰囲気にホーム長もご機嫌だ。
その時、潜んでいた体内の毒が活動を再開するがごとく、隣接するトイレに平田さんの摘便のために篭りきりになっていた斉藤介護員が再びトイレのドアを半分開けて叫んだ。
「ねえ、誰か、ちょっと来てえー、森さん(看護師)まだ居るう~?」
なにか逼迫したものをその声に感じて私とホーム長がトイレに駆けつけた。床に倒れた平田さんを前にした斉藤介護員が振り向きざまに言った。
「いやあ、出血がすごいの、便が硬いからね、だいぶやってみたんだけど難しいの」
便器をのぞいたホーム長が驚きの声を上げた。
「いやあ、こ、これは凄いわ、すごい血だ」
平田さんは土気色の顔をして便器の前の床に突っ伏している、呼吸は浅く速い。倒れこんだ床も腰のあたりを中心に血の海だ。後から来た佐橋相談員も言葉を失っている。とりあえず血圧と脈拍を計る。上が105、下が80、拍数95。
ホーム長が言った。
「救急車呼ぼうか・・・これは、もう、救急車だね、ね、そうだよね」
自分では決断できなくて誰かに賛同してもらいたいようだ。ホーム内で頼みの綱の森看護師は今日は昼間の勤務なので、もうとっくに帰っている。時刻は午後7時をまわっていた。佐橋相談員が森看護師の携帯電話にかけてみるがなかなか繋がらない。
斉藤介護員が口を開いた。
「いや、このくらいならよくあるから、救急車なんて呼ばなくていいって。安静にしてれば出血、止まるって。誰か防水シートとタオルケット持ってきて、くるんでベッドまで運ぶから」
《自分の摘便作業が原因で救急車沙汰になるのが嫌なのか》と私は勘ぐった。ケアマネージャーと見学のご家族は、このただならぬ雰囲気を感じ取って、遠くからトイレに集まっている我々を見つめている。
私はホーム長の耳もとでささやいた。
「ホーム長、救急車、呼びますよ」
「あ、いや、う、う~ん」
ホーム長は斉藤介護員の顔をうかがっている。斉藤介護員はホーム長を睨みつけるような表情だ。
私は受話器を取った。トイレから3メートルほどの所にある電話で119番を回す。コールセンターが出て、救急車を要請する私のやりとりを全員が無言で見つめている。全員が金縛りにあっていた。誰も私を止める者はいなかった。